『100話後、中村優作はちゃんと伝えられるのか。』
第1話|ちゃんと言った、はずだった
朝のオフィスは、まだ少し眠そうだった。
コピー機の音。
誰かのくしゃみ。
遠くで鳴る社内電話。
中村優作(30)は、パソコン画面を見たまま言った。
「佐伯、昨日の件なんだけど、先方向けの資料、今日中にいい感じでまとめといてくれる?」
後ろの席で、佐伯恒一(後輩24歳)が顔を上げる。
「今日中、ですか?」
「うん。そんなに重くしなくていいから。要点だけ押さえて、見やすく」
「……わかりました」
優作は頷いた。
(よし。これで伝わっただろ)
本当は、もう少し言うべきだったのかもしれない。
誰向けなのか。
どこまで詰めるのか。
何を入れて、何を削るのか。
でも、朝から細かく言いすぎるのも違う気がした。
佐伯は真面目だし、ちゃんとやる。
それに——
「中村さん」
斜め前の席から、相沢美月(1つ先輩)の声が飛んできた。
「10時の打ち合わせ資料、見ました?」
「あ、まだ。今から見ます」
「“今から”じゃなくて、9時半までにコメントください。先方、早いので」
「……はい」
美月はそれ以上何も言わなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ、
“また?”
みたいな目をした。
優作は小さく息を吐く。
(怖いんだよなあ、相沢さん)
怖いというか、正確すぎるのだ。
言葉も、段取りも、相手との距離の取り方も。
優作が“まあ大丈夫だろ”で流したところを、
美月はきっちり拾う。
昼を過ぎたころ、佐伯がノートPCを持ってやってきた。
「中村さん、資料できました。確認お願いします」
「お、早いね」
優作は画面を見た。
一枚目は表紙。
二枚目は実績一覧。
三枚目は作業項目の詳細。
四枚目、五枚目、六枚目——
優作の眉がゆっくり寄った。
「……佐伯、これ、だいぶ細かいね」
佐伯の顔が固まる。
「え……見やすく、ということだったので、流れがわかるように詳細も入れました」
「いや、詳細はここまでいらないかな。もっとこう、先方向けに軽く……」
「先方向け、ですか?」
「え?」
「社内確認用じゃなくて、ですか?」
優作は口を開いたまま止まった。
佐伯が続ける。
「中村さん、“先方向け”って言いましたっけ」
言っていない。
たしかに、今朝の自分は
“昨日の件”“今日中”“いい感じで”
しか言っていない。
優作は一瞬で、朝の会話を頭の中で巻き戻した。
(うわ……言ってない)
その時だった。
横から、美月の声が静かに入った。
「それ、佐伯くんのミスじゃないですよ」
優作と佐伯、二人とも顔を上げる。
美月は自分の席に座ったまま、こちらを見ていた。
「中村さんが曖昧です」
その言い方は、冷たいというより、まっすぐだった。
「“昨日の件”じゃ範囲が広いし、“いい感じ”は人によって違います。今日中って期限だけ渡して、中身を相手に丸投げしたら、そりゃズレます」
佐伯が気まずそうに視線を落とす。
優作は反射的に言い返しそうになった。
でも、出てきたのは言い訳ではなかった。
「……ごめん」
佐伯が顔を上げる。
「それ、俺の伝え方が悪かった」
一瞬、オフィスの音が遠のいた気がした。
優作は画面を見ながら続ける。
「先方向け。使うのは先方の部長クラス。細かい作業説明より、全体像とメリットが先。枚数は三枚くらいでいい。まず一枚目で結論、二枚目で現状、三枚目で提案。迷ったら、その時点で聞いて」
佐伯は目を少し丸くしたあと、すぐに頷いた。
「……はい。そしたら、やれます」
その返事は、朝よりずっとはっきりしていた。
佐伯が席に戻ると、美月が立ち上がった。
手にマグカップを持って、給湯室の方へ向かう。
すれ違いざま、優作の席の横で一瞬だけ止まった。
「最初から今みたいに言えばいいのに」
優作は苦笑した。
「いや……その、細かく言いすぎるのもどうかと思って」
美月は少しだけ眉を上げた。
「細かいのと、曖昧なのは違います」
そう言って歩き出しかけて、立ち止まり、
振り返らずに、
「でも」
「え?」
「ちゃんと謝ったのは、よかったです」
優作は言葉を失った。
美月はそのまま給湯室へ消えた。
たぶん、褒められた。
いや、褒められたというより——認められた、のかもしれない。
優作は自分の画面に視線を戻した。
でも、頭の中にはさっきの一言が残ったままだった。
細かいのと、曖昧なのは違う。
その言葉が妙に引っかかったまま、
午後一番、優作のチャットに新しい通知が入る。
送り主は、別部署の真壁恒一(3つ上の先輩)。
中村くん、悪い。例の案件、ちょっとだけ見といてもらっていい?
たぶんすぐ終わるから!
優作は画面を見つめる。
“ちょっとだけ”
“見といて”
“たぶんすぐ”
また、曖昧だ。
そう思ったのに、指はすぐに返事を打ち始めていた。
了解です
送信したあとで、
優作は小さく眉をしかめる。
その様子を、少し離れた席から桐谷ケイ(同期)が見ていた。
「優作」
「……ん?」
「お前さ」
桐谷は半分笑いながら言った。
「今日、また同じこと繰り返してるぞ」
優作は、返す言葉をなくした。
細かいのと、曖昧なのは違う。
優作はまだ、その違いをうまく使えない。
そして次の“ちょっとだけ”が、
彼をまた少し面倒な方へ連れていく。
第2話へ続く。
